あゝ名盤 シングル編⑯「母に捧げるバラード」海援隊

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海援隊母に捧げるバラード」(1973年12月10日)

 

A面「母に捧げるバラード
作詞:武田鉄矢
作曲:海援隊
編曲:三保敬太郎

 

B面「さすらいの譜」
作詞:武田鉄矢
作曲:中牟田俊男

 

 

母に捧げるバラード海援隊(武田鉄矢中牟田俊男、千葉和臣)の初期の大ヒット曲です。
もしも「金八先生」がなくても武田鉄矢さんは何だかんだ今とは違うポジションで芸能界で生き残っていたかもしれません。
しかし、「母に捧げるバラード」がなかったら果たして今はどうなっていたのでしょうか。それほど武田鉄矢&海援隊にとって重要な曲になります。
海援隊はこの曲で1974年のNHK紅白歌合戦に出場しました。

 

海援隊は1972年アルバム海援隊がゆく」(1972年10月5日)でデビューしました。
しかし、まったく売れませんでした・・・。

 

故郷・福岡を出た時は希望や夢に満ち溢れていました。
しかしデビューから1年後、彼らは絶望感と焦燥感でいっぱいでした。
ちょうどその頃、同郷であり海援隊がライバルと思っているバンド・チューリップの「心の旅」(1973年4月20日リリース/9月10日付けのオリコンシングルチャートで1位を獲得)が大ヒットしました。

 

「チューリップには負けられない!」と鉄矢さんは作詞ノートに無我夢中でペンを走らせます。
そして、「母に捧げるバラード」が誕生します。

 

実は「母に捧げるバラード」は海援隊セカンドアルバム「望郷篇」(1973年9月25日)に収録されているアルバム曲でした。ところが評判が良かったので新たに録音し、シングルカットされることになりました。


お母さん、今ぼくは思っています

 

始めは鉄矢さんからお母さんに語りかけるセリフをあえて標準語で。
歌は少しだけで、ほとんどが語りです。
そして、途中からお母さんから鉄矢さんに語りかける口調に変わり、博多弁のセリフになります。

 

コラ!テツヤ!何ばしようとかいな この子は

 

前半では笑わせ、後半になるにつれて泣かせる、暖かい愛のある作品です。
時代や場所によってセリフが変わります。その為、数多くのバージョンが音源として残されています。

 

ちなみに・・・「今も聞こえる あのおふくろの声〜♪」の歌の箇所は美輪明宏さんの「ヨイトマケの唄」を盗用したとのことです。
後に鉄矢さんはその事を認め、美輪明宏さん本人に謝罪しています。美輪さんは「あなたは島原の乱の時の仲間ね」と言って許したそうです。(美輪さんの前世は天草四郎⁉︎)

 

・・・・・・・

 

コラ!テツヤ!笑


とはいえ、「母に捧げるバラード」は時代を超えて、心に響く名曲です。
武田鉄矢」という個性を前面に押し出している、とても個人的な曲です。
しかし、それでいて多くの人に伝わる普遍的な曲でもあります。
鉄矢さんにしか歌えない、他の人にはカバー出来ない唯一無二の作品です。

 

ちなみに・・・「母に捧げるバラード」の後、海援隊の人気は低迷・・・。
紅白歌合戦に出場した翌年の大晦日には鉄矢さんは奥さんとともに皿洗いのアルバイトをするほどになっていました・・・。

 

その後、幸福の黄色いハンカチ」(1977年/松竹/監督:山田洋次で鉄矢さんが俳優として出演し、再び武田鉄矢&海援隊は浮かび上がります。
ところでそれまで役者経験のない鉄矢さんが何故いきなり抜擢されたのでしょうか。
しかも、当時は「母に捧げるバラード」を歌った一発屋といった感じで世間から忘れられつつありました。
実はこの大抜擢にも「母に捧げるバラード」が絡んでくるのです。

 

ある日、山田洋次監督はパチンコ屋の有線で「母に捧げるバラード」を聴き、興味を抱きます。それで実際に鉄矢さんに会ってみて、起用する事にしました。
海援隊は再び「母に捧げるバラード」によって甦ったのです。

 

 

B面「さすらいの譜」もアルバム「望郷篇」(1973年9月25日)からのシングルカット。
旅する青年の唄で人生とは何かと求めさまよう、若者の心情をよく表しています。海援隊は青春の風景を描くのが上手く、この曲もその一つ。
サビの「雨が降りだしゃ雨宿り〜♪」が何故か妙に心に残る隠れた名曲。

 

 

 

 

海援隊母に捧げるバラード

1974年NHK紅白歌合戦より


海援隊 母に捧げるバラード